西東京市議会 2023-03-03 西東京市:令和5年第1回定例会(第5日目) 本文 開催日: 2023-03-03
下野谷遺跡のみならず、鎌倉時代、戦国時代、江戸時代、幕末と西東京市の歴史を様々な角度から学ぶことは児童生徒の郷土愛を育むきっかけになると思います。ふるさと探究学習における歴史文化のテーマ設定について見解を求めます。 最後になります。(3) 地域博物館について。
下野谷遺跡のみならず、鎌倉時代、戦国時代、江戸時代、幕末と西東京市の歴史を様々な角度から学ぶことは児童生徒の郷土愛を育むきっかけになると思います。ふるさと探究学習における歴史文化のテーマ設定について見解を求めます。 最後になります。(3) 地域博物館について。
大河ドラマでもちょうど鎌倉時代のものをやっているという中で、当時のものとされるものが現在も残っている、そういう伝説が残っているというものは本当に貴重でございますし、歴史好きな方のフットパスルートにも入っている市指定旧跡であります。この鎌倉井戸の復元、そして、早急な事故防止対策が必要と考えます。 そこで、伺います。 (1)事故と撤去の経過を問う。 (2)今後の鎌倉井戸はどのようになるのか。
百草・倉沢地区においては、平成17年度から、日野市郷土資料館が主体となり、現在の京王百草園周辺に存在した鎌倉時代の大寺院、真慈悲寺と、その後、建立された桝井山・慈岳山松連寺に関する調査探究事業を市民と協働により取り組み、当地区の発掘調査、文献調査や史跡清掃などを行い、関連した特別展も開催してまいりました。 令和3年4月、文化財に関連した2課1係を統合し、ふるさと文化財課が設置されました。
先ほど答弁にもありましたように、真慈悲寺の物語があって、市民のそれに対する探索の事業があって、そして平山季重という鎌倉時代の歴史もあります。そして、日野用水は開削400年を迎えてということで、様々な日野の台地に恵み、そして農耕文化をつくってきたということもございます。そして、百草のほうではありませんけども、桑ハウス。
また、平山城址公園の南側の広場というのは、大福寺という禅宗寺がありまして、鎌倉時代に平山季重が晩年この地で過ごして、この寺を開基したとも言われています。 その寺にちなんだ公園で、本当にここの大福寺公園の前のほうに住民の方が移り住んできたんですが、この10年くらいで新築をされた方々が多いのかなと思っています。
また、名称も伝承に基づいているため、通称よりも伝がふさわしく、さらに鎌倉井戸の由来は、近世の絵図から鎌倉へ通じる道と認識されていた道の傍らにあることから、鎌倉時代まで遡る井戸と名づけられたと考えられるため、鎌倉古道推定地を付け加えることが望ましいとなり、種別と名称を変更することとなりました。 参考資料2、こちらに町田市文化財指定・登録基準がございます。4ページに市指定史跡の規定がございます。
また、市内には鎌倉時代の鎌倉街道が今なお残っております。市といたしましても、今年の鎌倉幕府を題材とした大河ドラマをチャンスと捉え、時期を逸することなく青梅市の魅力発信に努めてまいります。 歴史や文化の厚みを持つ青梅市では、誇るべき多くの地域資源が存在しております。これらの観光資源を通じて市民の皆様とともにシビックプライドの醸成に取り組んでまいります。
佐々木委員は予算審議の中で、アイヌ差別や虐殺の歴史がなく、アイヌは鎌倉時代に日本に渡来した人々であり、先住民ではないと発言しました。この発言は、現に差別を経験したアイヌの方々、また北海道内外でアイヌ差別をなくすために活動してきた方々の思いを踏みにじるものです。放置することはできません。また、2019年にアイヌへの差別や権利侵害を禁止したアイヌ新法の精神にも明確に背くものだと指摘するものです。
先日一般質問もいたしましたが、日本にはアイヌ差別や虐殺の歴史がなく、鎌倉時代に日本に渡来した人々であり、先住民族ではないにもかかわらず、アイヌ新法に300億円も投じられておりますが、北海道御出身の区民の方々も、アイヌ差別はなかったと証言されています。
日本は鎌倉時代から、いわゆる災害、それから貧困、疫病というものが不可分の事象、折り重なって発生するということが、そういう事象が多かったということで捉えられてまいりまして、文献にも、天変地夭・飢饉疫癘遍く天下に満ち広く地上にはびこると記録されているとおりでございますが、そうであれば、それら三つを包括的に捉えた準備をしておく必要があろうと思っております。
◆新井 委員 302ページ、観光振興なんですけれども、2年後の大河ドラマが鎌倉時代ということが決まっているようでありますので、伺いたいんですけれども、観光振興における鎌倉古道の活用状況と、今、八王子市さんが日本遺産とかでいろいろ古道をかなり活用するということで頑張っているようなので、観光振興における御殿峠古道など、古道の活用状況をお聞かせください。
発見遺構は、小穴4基、溝状遺構1基や水田遺構1か所が確認され、発見遺物につきましては、土師器甕、磁気碗、磨石などで、調査成果といたしまして、現在の地表面から約30から40センチメートルの深さで、奈良・平安時代から鎌倉時代の遺構群が確認され、特に、平安時代から鎌倉時代の溝状遺構と水田遺構が確認されたことは、府中市域の沖積低地において、生産基盤の水田経営を本格化するために、鎌倉時代に進んだ条里地割の遺構群
次に、7の調査成果といたしまして、現在の地表面から約30~40センチメートルの深さで、奈良・平安時代から鎌倉時代の遺構群が確認され、特に平安時代から鎌倉時代の溝状遺構と水田遺構が確認されたことは、府中市域の沖積低地において生産基盤の水田経営を本格化するために、鎌倉時代に進んだ条里地割の遺構群の可能性が考えられることから、当該地域の水田経営の歴史を明らかにする上で貴重な成果となるものと考えております。
初めに、埋蔵文化財発掘調査におけるこれまでの主な成果についてですが、発見された遺構の概要を時代ごとにまとめ、まず、平安時代から鎌倉時代の遺構といたしましては、国衙区画の西側に当たる場所において、官衙の区画溝に匹敵する大溝が二つ発見されており、中世の国衙や六所宮との関係が注目される遺構となっております。
上から時代の古い順に記載しておりますが、まず平安時代から鎌倉時代の遺構といたしましては、国衙区画の西側に当たる場所において官衙の区画溝に匹敵する大溝が二つ発見されており、中世の国衙や六所宮との関係が注目される遺構となっております。 次に、室町時代の遺構といたしましては、地下式坑が敷地中央から大国魂神社側へ分布していることが判明し、こちらも中世の六所宮との関係が注目されることとなっております。
恐らく平安時代、遅くとも鎌倉時代から続く古いお寺ですが、このお寺の住職や関係自治会長らが反対署名を積み上げたという事実です。 二つに、地形的な特徴から周辺環境に大きな影響を及ぼすことです。この路線は、急なのり面を斜めにおりていく計画のため、のり面の両側に既に建っているマンションの玄関先が道路に面して崖になってしまい、玄関から出られなくなるなどのさまざまな問題がありました。
西方に富士山、東北方に筑波山を望み、南に江戸湾を見下ろす谷中上野台地の尾根筋には、先史時代から人々が住み、鎌倉時代初期に鎮守諏方神社が鎮座し、古くから景勝の地でした。中世には谷中に感応寺(現天王寺)、江戸時代には上野の山に東叡山寛永寺が建立されました。
中世といいますと、一般的に言われているのが鎌倉時代ですとか、室町時代のものなんですが、そのときの時代の建物ですとか、工作物の建っていた跡と思われるものがあるという報告を受けておりまして、それが一体どういうものなのかというところは、現在、最終的に確認をしている中で明らかになりますので、また時期を見て、その内容については市議会の方に御報告したいと思っています。
鎌倉時代中期の国行など国宝2振りをはじめ、重要文化財指定の刀を多数展示している両国の刀剣博物館、また、現在、富士美術館では刀と印籠のサムライ・ダンディズム展が開催中です。パルテノン多摩で行っている多摩市乞田鍛冶、ここは八王子の刀工を師匠とする浜田兄弟という方がいますけれども、この方を中心とする刀鍛冶と文明開化展などを見学いたしました。
(スクリーンを元に戻す) 1つの元号は2年から5年、短いものでは数カ月しか使用されないことも多く、鎌倉時代には「改元既に年中行事のごとし」といった批判もありました。また、元号を使用していない時代は、天皇の名をそのまま使用しており、大化まで在位していた女性天皇、皇極天皇は、皇極4年で孝徳天皇に譲位し、大化元年になっています。 元号の成り立ちから日本の歴史をたどると、時代の変遷がよくわかります。